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インタビュー

養子当事者インタビュー② 「晴れて成人式を迎えた日、父は涙していました」

<養子当事者インタビュー②>

当事者の声から考える特別養子縁組制度のこれから

晴れて成人式を迎えた日、父は涙していました

特別養子縁組制度の法整備が進み、すべての子どもが家庭で育つことができる取り組みが進むなか、いまだ不足している特別養子縁組家族への情報提供やサポートの拡充が求められています。ハッピーゆりかごプロジェクトでは、養子として育った方々のご経験に耳を傾けることで、そのサポートのあり方を考えていくべく、成人された当事者のインタビューを行いました。

第2回にご登場いただくのは、20歳代前半の女性Nさん。特別養子縁組制度を通して、1歳未満で家庭に迎えられました。落ち着いた家庭環境で、大事に育てられてきたそうです。周囲は自然にも恵まれた環境で、もしご自分が子どもを持ったら「実家で子育てをしたい」と語ります。この春大学を卒業し、社会人となるNさんに生い立ちを振り返っていただきました。

(聞き手/ハッピーゆりかごプロジェクト 新田歌奈子)

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赤ちゃんの国からやってきた?

―1歳になる前に乳児院から家庭に迎えられたそうですね。

乳児院にいたときのかすかな記憶が、部分的な画像として残っています。まだ赤ちゃんでゴロゴロしていたと思いますが、訪問してきた人、たぶん両親が私のことを見ていました。父に抱っこされて初めてお家に来た日のこと、お庭にいたワンちゃんに紹介された記憶もあります。

父も母もとてもまじめな人で、私は箱入り娘とでもいうのでしょうか、悪い道に行かないように、大事に、大事に育てられました。今になって「窮屈だったよね、ごめんな」と言われることもあります。でも私からすると、両親と祖父母にやりたいことは何でも叶えてもらって、ほんとうにありがたい思いでいっぱいです。

小さいころから習い事などたくさんさせてくれました。英語、ピアノ、エレクトーン、合唱、空手、テニスなど、私がやりたいこともあれば、親の勧めもありますが、いろいろな経験をさせてくれましたし、語学留学にも行かせてもらえました。習い事や教育だけでなく、母と愛犬と一緒に川の上流まで登ったり、祖母とフキノトウを採りに行ったり、子ども時代はたくさんの思い出があります。

大学に入った4年前に一人暮らしを始めました。実家では子育てがひと段落したことから、1年前から小学校低学年の里子さんをお預かりしています。里子さんの子育てはなかなか大変のようですが、「子どもを支えたい」と行動する両親はすごいなあと改めて感じています。

 ―Nさんを養子として迎えたという真実告知はありましたか?

小さいころから伝えてもらっていました。幼稚園の頃、「赤ちゃんの国から来たんだよ」と言われましたが、抽象的すぎていまひとつピンと来ませんでした。小学校に上がる頃、いつもとは違う、改まった雰囲気で「乳児院という施設から家に来たんだよ」と教えてくれました。そうやって具体的に聞けたことで、理解できました。最初から普通に説明してくれた方がよかったような気がしますが、小さい子には「赤ちゃんの国」と言ったほうが、やわらかく伝わると思ったのでしょうね。

そのときはどんな反応をしていいのかわかりませんでしたが「あなたはお父さんとお母さんの子だからね」としっかり言ってくれたので、「そうなんやな」と、すんなり受け入れました。

真実告知とはいっても、特別養子縁組制度について詳しく説明を受けたわけではないので、後になって「18歳になったらお家を出なくてはいけないのかな?」など、疑問も出てきました。本棚には養子や里子に関する本があったので、開いてみましたが、漢字が多くて読めません。制度の説明なども、子どもだから早いとは思わずに、きちんと伝えてくれるとよいと思います。

いずれにしろ、小学生の頃から、他の子たちとは違う生まれなのだということを認識しました。そのせいなのか、もともとの性格なのかわかりませんが、「周りと同じでなければいけない」とか「合わせなくてはいけない」という感覚はあまりなかったですね。マイペースなタイプでした。

 生い立ちの授業も受けた

―ご近所や学校など、周囲もご存じでしたか?

先生には伝えてありました。小学校2年生のときに、生い立ちの授業があったのですが、先生に呼ばれて「この授業をやっても大丈夫?」と訊かれました。「その時間だけほかの教室に移ることもできるよ」と。私はなんとも思わなかったけれど、大人のほうが心配したり、気を遣ったりしてくれていたようです。赤ちゃんの頃の写真も出せるし、普通に授業を受けました。そのことを後で母に伝えたら、「小さい子に言っても判断できないのに」と、怒っていました。先生から親にも相談してほしかったのかもしれません。

小学校3年生のとき、学校で心理テストのようなものを受けることになりました。自覚がなかったけれど、教室では一人でいることが多かったようなのです。私は一人がさみしいという感覚はなかったのですが、先生としては心配だったのでしょう。

テストでは、質問に答えたり、絵を描いたりしました。「木を描いてください」と言われて、「この表現で何かを診断されるのだろう」と察知して、しっかり木らしく描いたほうがいいかもしれないと思い、木の根っこを大きく、葉がフサフサになるようにイキイキと描きました。

近所の友達は養子であることを知っていたし、そのせいでいじめられることもありませんでした。近所のおばさんからは今でも「あなたが赤ちゃんのとき、私もあなたのおむつをかえてあげたのよ」と懐かしく思い出してくれます。私も普通の親子という感覚で、「養子であることは特別だ」という感じはありませんでした。

 思春期に悩んだのは「自分とは?」

―思春期に入ってからの親御さんとの関係はいかがでしたか?

中学生から高校生の頃は、母とぶつかることが増えました。私は思春期、母は更年期で、お互いにたいへんな時期だったのかなと思います。父とぶつかることはありませんでしたが、亭主関白な感じが、ちょっとイヤだなと思うことはありました。例えば、晩御飯のときに母から「おしょうゆもってきて」と言われて、「なんで、私は使わないよ」というと「お父さん使うから」と。私は「しゃーないな、こういう人とは結婚しないでおこう」と思いましたが(笑)、深刻に対立したことはなかったです。

今思い返せば思春期は病んでいたなあと思う時期も普通にありました。中3くらいですかね、「自分とは?」というアイデンティティについて悩んでいたなと思います。「私がこの思考回路なのは、特別養子で育ったせいなのか、そうではないのか」という堂々巡り。一時期、頭の中と体が追い付かなくなって、体調を崩したこともありました。

その頃、「あまり本心をしゃべらないよね?」と友達から言われたことも原因の一つでした。でも私は「言いたいことが言えない」という自覚はなかったから、どう改善してよいのかわからず、悩みが深まりました。

本心が言えないということは、何かをがまんしていることですよね。私はたぶん、自分がやりたいことはやれていたし、がまんをするほどの欲がなかった気がします。もしあったとしても、「まあいいや」とあきらめが先にきて、言葉に出さなくて終わるタイプなのかもしれません。

 「自分の人生の犠牲者になるな」

―思春期に悩んだとしても、真実告知を受けていてよかったと思いますか?

はい、教えてくれて良かった、マイナスはなかったです。思春期になって知るとか、成人して結婚するときになって知る方がショックなのではないかと想像します。

「自分とは?」と悩み続けた頃、その悩みは自分の出自のこともあったと思いますが、悩んで、悩んで、自分に対して思ったのは「犠牲者ぶっていてはいけない」ということでした。

人それぞれ、さまざまな事情を抱えている。自分の人生が、自分が抱える事情や境遇の犠牲になってはいけない、そう思ったのです。そこから、「自分の人生の犠牲者になるな」と自分に言い聞かせるようになり、いろいろなことが吹っ切れていった気がします。

大人になるにつれ、「ずいぶん、お金かけてもらったかも」と思うようになりました。子ども一人育てるのに2千万円という調査もありますよね? 両親が生きている間に私に恩返しはできるのだろうかと。そんな風なことを話したとき、「お返しなんて、子が親に必要ない」と言われました。

私は一人っ子ですし、介護が必要な時期も来ると思いますが、両親は「貯金しているから、介護のために仕事をやめたり、実家に帰ったりしないで」とも言われています。あと、自分が受けた負担をさせたくないという思いがあるようです。

祖父母たちはさみしがって、帰ってきてほしいとは言われます。祖父が自動車免許を返納したので、送迎などもあてにされているのかと思いますが。就職しても実家には時々帰って、顔を見せたいと思っています。

 養子縁組の家族の会にも参加していた

―養子縁組のご家族に対して何かサポートはありましたか?

あっせん団体が主催する会だったと思いますが、養子縁組家族の会がありました。小さいころから親子で参加していました。親たちが懇談している傍らで、子どもたち同士で一緒に遊んでいて、ケーキ作りやバーベキューなど、レクリエーションも主催者がいろいろ企画してくれていました。年に4回ほど季節ごとに開催されていました。

親同士は子どもが成長しても会を続けていたと思いますが、子どもたちが中学生くらいになると、部活が忙しくなったりして、参加者もだんだん減ってきました。私は高校3年生のときに参加したのが最後でしたね。今なら携帯もあるから、子ども同士で連絡先を交換したかもしれませんが、当時はお互いに連絡を取ることはありませんでした。

それぞれ親元から独立している年齢なので、子どもだけで集まって、お酒飲みながら話してみたいです。私が話題にしたいのは「自分の子育てどうする?」ということ。普通に結婚して子を持ったとしたら、自分の遺伝子を受け継ぐ存在に対してどんな感覚を持つか、どんな期待やどんな心配を持っているのか、聞いてみたいと思います。

もし、グレてしまった子がいたとしたら、ちゃんとグレたからこそ、自分の子育てのときにその経験が生かせるかもしれませんよね。私はそれなりにうまく過ごしてきたから、「自分の子どもがグレたらどうしよう?」なんて、そんなことも考えます。

小学生の里子との交流

―Nさんと小学生の里子さんは交流があるのですか?

実家に帰ったときは一緒に遊びますよ。「お姉ちゃん」と呼ばれています。きょうだいという意識はないと思いますが。私は赤ちゃんの頃から育てられていて、手はかからなかったようですが、里子さんは幼児期の発達に少し課題があるとのことなので、両親は子育てに苦労しているようです。

里子さんと接していて、私は小さいころから家庭という環境で育つことができたのは、ほんとうにありがたいと思います。家族や親族という関係性も、家族の中で育っていないと感覚的に理解できませんよね。里子さんも1年経った今は、祖父母はこんな存在、いとこはこんな距離感、ということが徐々につかめてきているみたいです。

実は里子を引き受ける話は以前にもありました。私が小学校に上がる前、両親に「きょうだいがほしい」とお願いしたことがあったらしいです。それで、乳児院まで私も一緒に行って、少し相談したらしいのですが、そのときはご縁がなく話が進みませんでした。

その後、東日本大震災が起こった後、親御さんを亡くしたお子さんを受け入れたいと両親から相談されました。でも私は当時、受験を控えてプレッシャーを感じていたので、反対したのです。今回も私に相談してくれました。今回は私も成長したので、賛成しました。これまで私だけに注いでくれたものを、また他の子にも注いであげられたらいいなと思いました。父と母は、ときどき交代で、私のところに息抜きに来るので、子育ての話を聞いてあげています。

 知りたいのは病歴や遺伝子的な情報

―いつかはルーツ探しをしたいですか?

もしそのために動くなら、学生と社会人のはざまに居る、今の時期なのかも知れません。もし両親に相談したら、協力してくれそうな気がします。以前、父がポロっと、「生母さんの名前は知っているよ」と言ったことがあります。そのとき初めて、まだ生きていることを知りました。それ以上は話を深めていいのかわからなかったので、話していません。

今のところ、生みの親に会いたいとは思わないのです。お会いしても「はじめまして」と言う以外、何か話が続くのかなと。生みの親はいるけれど、育ての親が親、それでいいのではないでしょうか。昔話を掘り起こしたところで、特にいいことなさそうな気がします。

知りたいことは、病歴などの遺伝子的なことです。女性ならではの乳がんや子宮がんなど、遺伝しやすい病気があるかどうか。貧血気味なので、体質のことが何かわかったら助かります。それと、美容のことも気になる年頃なので、自分が将来どんな体形になりそうなのか、どんな風に年を重ねそうなのか気になります。会わなくてもいいから、どんな人なのか遠目でも見てみたいとは思います。

 子どもを授かったらぜったい産む

―ご自分とご家族とのこれからについてどんなことを考えていますか?

先日、あっせん団体さんの主催で行われた、成長した養子当事者の方々と食事会に参加しました。赤ちゃん連れの女性は、私と同い年ですでに二人目を出産されたとのことで驚きました。ほとんど初対面の方なので、そんなに深い話はしなかったのですが、行ってよかったです。今後も同じ背景を持つ方とお話しする機会があるといいと思います。

お酒が飲める年齢になってからは、父といろんな話をしながら、一緒に飲むようになりました。成人式の日に一緒にお酒を飲みましたが、「こんなにちゃんと育ってくれて」と涙していました。一生懸命育ててくれていたのだなあと思います。父は最近、飲むとますます涙もろくなったみたいです。

私は将来、結婚して子育てしたいなと思っています。自分の子どもを産んでみたい、自分の遺伝子を共有している存在に会いたい気持ちはありますね。でももし子どもを産むことが叶わなかったとしたら、養子を迎えて子育てしようとまでは思わないかな。そういういう意味で、やはり両親はすごいなと思います。

子どもが生まれたら実家へ帰りたいです。自分が育った環境が気に入っているので、そこで子育てしたい。田舎で何もないところだけど、山にいったり川にいったり、田んぼに言ったり、自然がいっぱいで子育てをするにはとても良い環境です。

同年代の友人たちは、意外と専業主婦願望の子が多いです。「就活やめて婚活する!」なんて。うちの母は専業主婦ではなく、経理職で会社に勤めていました。私を迎えて3か月くらいは休職したそうですが、その後は共働きです。母の影響もあって、高校は企画経営課がある商業高校に進み、経理関係の資格を取りました。私も母のように子育てしながら仕事も続けたいです。

そういえば、成人した頃、何人かの友達に「もし今、妊娠が発覚したらどうする?」という質問をしたことがあります。どうしても聞いてみたかったのです。私はぜったいに産むと思いますが、友達は「子どもをあきらめるかも」という答えのほうが多かったです。そのことを責めるつもりはないですが、成人していても、現実はそうなのかなと考えさせられました。

私は産みたいし、もしそのパートナーと結婚できなくても、実家に頭を下げて協力をお願いします。万が一、自分だけでどうしようもなくなったら、養子縁組に託す選択肢もあるわけです。私はそのことを知っているから、中絶は考えないのだと思います。養子として託しても、子どもはちゃんと幸せになれますから。ほんとうに、幸せになれると思います。

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インタビューを終えて、、、、

美容や恋愛話が好きな、ごくごく普通の大学生のNさん。自分が養子であることは小さい頃から知っているけれど、そのことに対してネガティブな感情をお持ちでないご様子でした。
お話した中で、生みの親と会いたいとは思わないけど、既往歴や容姿は知りたい、というお話しが印象的でした。生みの親のプライバシーと子どもの出自を知る権利のバランスについては国によっても考え方が違いますが、今後は日本でも議論を深め、生みの親が情報開示に同意する場合は、情報をきちんと保存し、子どもが望んだときには伝えられる仕組みがあると良いのかとも思いました。

(日本財団 新田歌奈子)

私たちは、社会と子どもたちの間の絆を築く。

すべての子どもたちは、
“家庭”の愛情に触れ、健やかに育ってほしい。
それが、日本財団 子どもたちに家庭を
プロジェクトの想いです。

プロジェクト概要