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インタビュー

「子どもたちに選択肢を与えてほしい」 ―― 児童養護施設で育った競艇の木村光宏選手に聞く

日本には、さまざまな事情で生みの親と暮らせずに、乳児院や児童養護施設で生活する3万人を超える子どもたちがいます。赤ちゃんの時に施設に預けられ、家庭生活をほとんど知らずに大人になる子どもも少なくありません。

トップ選手が集う「A1級」で活躍する競艇選手の木村光宏さんは子ども時代の6年間を施設で過ごしました。プロ選手となったいま、自分が育った養護施設や、施設で暮らす後輩たちの支援を続けています。木村さんが考える、社会的養護の現状と課題を聞きました。

 ――競艇選手はふだんどのような毎日を送っているのですか。

選手の種別によっても違いますが、A1になると全国を移動していくつものレースに出場します。船舶の整備や移動日も入れると1カ月のうち24日程度はレース関係で埋まってしまいます。二十歳で競艇の世界に入ってから、ずっとこんな生活を続けています。

――競艇選手になったきっかけは?

社会人として板前の修業をしていたころ、友人と競艇場へ行ったのがきっかけです。こんな世界があるのかと。大金を稼ぐ選手になってまわりを見返してやりたいという思いもありました。プロになるには全国に一つしかない養成学校に入り、1年間の訓練を終えて国家試験を受けないとなりません。その養成学校に入るには筆記と体力試験があり、当時で倍率30倍以上の難関でした。働きながら勉強を続け、5回目の挑戦でついに合格しました。通信制の高校も無事、卒業しました。

――幼少期を児童養護施設で過ごしたそうですね。

父親は全国を公演して回る旅芸人で、1カ月に数日しか顔を合わせませんでした。母親は心身共に虚弱な人で、家事や育児はほとんどできなかった。父親にもらった小遣いで菓子パンなんかを買って食べていました。とにかく貧しかったですが、それほど悲壮感はなかったです。子どもですから「ゴハンよりお菓子のほうがいいや」ぐらいで。そういう僕の様子を心配して、近所の民生委員の方が行政に通告したのでしょう。小学3年のある日、突然、施設に連れて行かれたんです。

子供ですから、何が起きたのかわからない。とても不安でした。施設に入ってからも、何度も脱走しました。お金もないので、ひたすら歩いてね。とはいえ、帰る場所があるわけでもない。とにかく「ここではないどこか」へ逃げたいという思いでした。

――どんな暮らしぶりだったのですか。

まず、僕の話は30年以上前のことだということを断っておきます。当時は、子ども同士のいじめもあり、正直に言って、毎日つらかったです。どの子も家庭環境が複雑で、傷ついた者同士が集まっていましたから。僕は体も小さく、集団生活になじめずによく殴られました。いじめられても、報復が恐いので先生には絶対に言えません。当時は子どもの数も多く、対する先生の数は限られていましたから、なかなか大人の注意の目は行き届かないのです。当時は4人部屋で、寝るときも気が休まらなかった。自由時間もほとんどなく、学校の往復以外の時間は基本的に管理されているような状態でした。週末に外出するにも施設長の許可が必要だったので、同級生と気軽に遊びの約束もできませんでした。

――親御さんにも、なかなか会えなかった。

そうですね。つらくても、居場所はそこにしかないのです。親が週末などに会いに来る子は少なかったです。お盆や正月も家に帰らない、帰れない子のほうが多かったですね。施設側は、一時帰省する子には米やら野菜やらお土産を持たせたものです。そうしないと親が迎えてくれないので、施設も知恵を絞ってくれたのです。僕がいた施設では、いまも長い休みに帰る家のない子どもたちを1泊2日の旅行に連れていくなどしていますが、僕らは選手会でそのイベントに出資したり、当日の運営を手伝ったりしています。子どもたちに、少しでも楽しい思い出を作ってあげたい。当時お世話になった先生たちとは今も交流があります。自分の親に甘えられないぶん、今も先生たちに甘えているのですね。

――当時、いちばんつらかったことはなんですか。

孤独、でしょうか。施設で育った仲間たちの中には、社会に出ても他人との関係がうまく築けず、仕事で挫折してしまう人が少なくない。社会に出て思うのは、人ときちんとコミュニケーションをとれることが、どんな仕事でもいちばん重要だということです。

思春期には、たとえば失恋が原因で人間不信になってしまうこともある。そういう多感な時期に、自分の悩みや不安に1日つぶしてでも向き合ってくれる大人がいるかどうかは、その子の後の人生に大きく影響すると思います。

僕の場合は、そんな時期に大切な出会いがありました。僕は選手養成校に入るまで、パチンコ店で深夜まで働きながら通信制の高校に通っていました。近くに朝3時まで営業する喫茶店があり、そこの経営者夫婦が子どものようにかわいがってくれたんです。僕らの悩みを聞き、疲れていると二階の部屋で仮眠させてくれた。僕にとってはオアシスでした。人のぬくもりを感じられたからです。

――幼少時代を振り返って、何をいちばん必要としていたと思いますか。

とても難しい質問です。一つだけ言えることは、もっと抱きしめてほしかった。人のぬくもりにはすごい力がある。いろんなことで傷を負った子どもたちをぬくもりでいやすために、『抱きしめ屋』が欲しいくらいです。赤ちゃんは本来、理由なく抱きしめてもらえる特権を持っているはずです。子ども時代に抱きしめてもらった体験は、大人になってから抱きしめてもらうのとは違う。子どもにしてみれば、人生に起きるいろんなことは一歩間違えたら死を選ぶぐらい深刻な問題です。いちばん必要なことは、誰かがぎゅっと抱きしめてくれることなのだと思う。家族を失うなど、つらい局面に立たされている子どもがいたら、飛んでいって、ただ抱きしめてあげたい。

――ご自身の経験から、今後の日本の社会的養護にはどんな政策が必要だと思いますか。

子どもたちには、施設、里親、養子縁組など複数の選択肢があるといいと思います。養子縁組のことは最近まで詳しく知りませんでした。世界でその可能性が認められている制度なのだから、積極的に採り入れ、リスクや失敗を検証していけばよいのではないでしょうか。一方で、施設がなくなったら僕のような子どもは困ってしまうし、里親のもとでうまく適応できない子もいるでしょう。その子にとって何がベストか、親身になって考えてくれる大人がいてくれればと思います。

子どもを救うためのさまざまな手段に、もっと社会に関心を持ってもらいたい。父親が3歳の子を餓死させてしまった事件がありましたが、そこで児童相談所だけを批判しても始まらない。ああいう事件が起きるのを許してしまった社会にも責任があると僕は思います。社会全体で解決に向けて立ち上がるという意思表示をしなければならない。

支援の手は子どもだけでなく、子どもにつながる親にも広げるべきです。女性が独りで働きながら子どもを養っていくのは本当に厳しい。子どもを連れて逃げ込める、母親たちの駆け込み寺も必要だと思います。■

聞き手:後藤絵里(朝日新聞GLOBE)

木村光宏選手プロフィール 1971年、香川県生まれ。小学校3年から中学3年までを香川県の児童養護施設「県立亀山学園」(丸亀市)で過ごす。1992年に故郷の丸亀競艇場でデビュー。2007年度の最多勝利選手(年間137勝)を受賞。通算優勝は50回に及ぶ。二度の結婚で4児の父。

私たちは、社会と子どもたちの間の絆を築く。

すべての子どもたちは、
“家庭”の愛情に触れ、健やかに育ってほしい。
それが、日本財団 子どもたちに家庭を
プロジェクトの想いです。

プロジェクト概要